序章 ―プロローグ―

震災からちょうど丸一年が経とうとしていた2012年、僕たちにできることは一体何なのか?そんなことを考えていた矢先、インド大使館から一本の電話が入った。

『君たちを1月26日に日本で行なわれるインド共和国記念日式典に招待したい。また、 もし日程が合えば、3月11日にニューデリーで行われる3・11追悼式典にも参加してもらいたい。そこで君たちはインド隊の隊員たちに再会できるだろう。』

突然の連絡だった。

思えば僕たち日本人の通訳ボランティア隊は、2011年3月28日から4月10日まで、インド国家災害対応部隊(National Disaster Response Force:通称NDRF)と行動を共にし、3月30日から4月5日までの7日間、宮城県女川町の災害救助および行方不明者捜索活動に従事した。そこで僕らが目にしたものは、想像を絶する巨大な津波が、町を一気に飲み込んだ形跡と大量のガレキの山、そして地上に剥き出しとなった住居の土台だけだった。29日の午後女川町に到着すると、女川町仮役場災害対策本部よりその日のうちに住宅地図を手渡された。だが、その日は日照時間の関係上、現場の視察だけに終わり、翌30日から本格的な捜索活動が開始された。

活動時間は午前9時から午後4時まで。日照時間が短い上に、余震もまだ頻繁に続いていたことから、隊員全員の安全と二次災害を未然に防ぐため、そのような措置が取られた。重機を持たない軽装備のインド国家災害対応部隊NDRF(以下、インド隊)。しかし、その様相とは裏腹に隊員46名の士気は高く、一般人ではとても危険で立ち入ることもできない半壊状態の木造家屋の中を、瓦礫の中から拾い集めた木材を使い、建物の内側からまるで支え棒をするような形で、それを柱のように建物内部に突き立てながら進んで行く。その勇姿を僕らは見守るだけだった。

午前10時頃。僕たちが捜索活動をしていると避難者の方々がぞろぞろと、避難所から自分たちの自宅のあった場所まで下りてくる。そして作業初日、ある女性のこちらを無言で見つめる視線に気づいた。避難者の一人N.Kさんである。たまたまN.Kさんの自宅近くで捜索していたインド隊の様子を、少し離れた所から静かに、そしてじっと見つめ続けるN.Kさん。その様子を見た僕は『すみません。こちらはご自宅だったんですか?』―思わす声を掛けていた。そこから 僕とN.Kさんとの会話は続く。

そのやりとりの中で「N.Kさんのとなりのお婆さんが行方不明であること」「避難所に指定されていた女川町老人憩いの家寿楽荘が津波に飲まれ、そこに避難をしていた約7名の方々が次々と犠牲となったこと」「その犠牲者の一人がとなりのお婆さんであったこと」など、地元の住民でしか知り得ない、貴重で有力な情報と証言を得ることができた。N.Kさんは呟いた。『もしかしたら、あの丘の上の方にお婆ちゃんがいるかもしれない。』『お婆ちゃんと一緒に避難した息子さんの遺体がそこで上がっているから…。』その声を僕はすぐアロック・アワスティ隊長に伝えた。隊長は即座にその付近の捜索を指示。僕たち通訳ボランティア隊が地元住民とインド隊を繋ぐ、新たなミッションを得た瞬間であった。